中村 明 先生

中村 明 先生

在籍年数 昭和38年4月~47年3月(9年間)
教科担当 理科・軽音楽部・生物部顧問
経歴
  • 昭和46年9月より47年3月までは北高と静岡女子短期大を併任。
    (※正式には静岡県立大に転任、北高は非常勤であり、その他にも静大、浜短、国際工学院などでも、ながらく非常勤講師をされていた)
  • 北高在職中に二つの賞を受けている。(昭和40年 第3回下中教育奨励賞、同年 第2回斉藤賞)
  • 静岡県立大学名誉教授。 研究分野は、細胞遺伝学、実験動物の開発で、所属学会は、日本動物学会(※特別会員)、日本遺伝学会、日本実験動物学会、日本生物物理学会、日本家禽学会。
  • その他、先生は、独立2年後の「エストニア」に留学、アジア人初の留学生となったという経歴の持ち主で、また、浜松一中(※浜松北高旧制52回)の卒業生でもある。
  • 令和2年2月15日ご逝去

message

届などに署名をしてその後に生年月日を書く。
1明治、2大正、3昭和、4平成。5年8月13日なのだが、この数列がフイボナッチ数列であることに気が付いた。 フイボナッチ数列とは0、1、1、2、3、5、8、13、21、・・・と連続した2数の和を次にと連ねたもので、この中の連続任意の2数の間の比率は数が増すほどにφ、即ち黄金比に近づくという数列である。
ところが、これらの数は、生命現象に密接で単子葉植物の子葉一つ、花弁、ガクは3枚。双子葉植物の子葉、動物の耳、眼は二つ、双子葉植物例えば桜の花弁,ガク、我々の指は5、ヒト乳歯の種類は5(左右上下で5Х4=20)、ヒトデは星型で棘皮動物は五放射相称、タコの触手は8、イカは長腕2+短腕8=10、テッセンの花弁は8、ヒトの永久歯の種類は8(8Х4=32),松毬、パイナップルの果皮構造には8,13など切がない。これら生命現象と数の不思議が、これとは全く別格の僕の生年月日と同一であったとは。偶然の不思議。’15.5.19


【幡鎌さんからのメッセージ】
 中村明先生との素晴らしい再会

中村明先生には、高校1年のとき、「生物」を教えていただきました。私は今もそうですが虫をはじめ犬・猫など動物が苦手で、当時も「生物」と聞いただけで、あとずさりしたくなる雰囲気でしたが、明先生の授業はとても興味ぶかく、成績はともかく、今でもDNA、RNAなどの耳慣れない言葉の記憶とともに、身近な「遺伝」の話が大変面白かった記憶があります。
 高校卒業後、長く御無沙汰でしたが、2008年ごろ、嬉しくも突然、中村先生と御会いする機会が巡ってまいりました。旧制52回の中村雄次氏に「北高で、明先生に生物を教えて頂いた」と話したところ、「同級生だから、今から一緒に会いに行こう!」と、お誘い頂きました。当時、主人と共に、明治~昭和初期の動物学者で「種の起源」の命名・翻訳者「丘浅次郎」の研究をしていたので、御宅にお伺できましたことは、本当に幸運でした。先生は北高に在職される以前、国立遺伝学研究所(三島市)で丘の御子息と御一緒されたという話をして下さいました。そして、2013年3月に発行した拙著『人類は下り坂-丘浅次郎と「ダーウィン」邦訳の謎』(※静岡新聞社)に「丘 浅次郎先生に因んで」という文を御書きになって下さいました。「物事には背景というものがあるのだが、私たちは直接にはその結果を見ている。………」で始まる先生の御文章は、生物学、進化論などのエッセンスを明快に伝え、人類の将来と社会のあり方まで、私たちに考えさせてくれます。
 「地球上の生物は、お互いに関連し、競い合いながら、そして、相互に恩恵を交換し、多様化し、共進化してきたのである。…(略)丘浅次郎もこの事に触れており、強いもの勝ちでは結局、その社会は崩壊する事になる。」(※帯表紙の明先生の文・掲載写真③参照)
 このような先生の大きな御協力の下、私たちは「第13回静岡県自費出版大賞」を受賞することができました。中村先生、本当にありがとうございました。
 また先日は、再生医療やスタップ細胞などの先生の講演会にお招き下さり、大変、有意義な時間を過ごさせて頂きました。(※掲載写真④参照)そして、後日、御宅にお伺いし、個性豊かなウズラや賢い鴨の話など、時のたつのも忘れて聞き入ってしまいました。そして、先生が留学されたバルト3国の中の最北の国「エストニア」は、ソ連軍の戦車を民衆がコーラスで迎え、無血革命を成し遂げたという話、さらに、先生の御父様の「グランドピアノの疎開の話」など、驚きの連続でした。なお、この「歴史あるグランドピアノ」は、日本で最初に製作された3台(※昭和2年・カワイ製)のグランドピアノの中の貴重な1台で、浜松市に中村先生が御両親の御名前で寄贈されたそうです。現在、浜松市楽器博物館の一番奥に展示されているとのことで、是非、見に行きたいと思っております。
 卒業後、30数年を経て御会いしても、変わらぬ笑顔で迎えてくれ、いつも素晴らしい御話を聞かせて下さる北高恩師・中村明先生、いつまでも御元気で、御活躍ください。                            
(2015.5.2 記)

【後藤佳子(旧姓・村石)さんからのメッセージ】
  恩師 中村先生の講演会と宿題とウズラ卵

 2015年3月、中村明先生との運命の再会となりました。同級生の幡鎌さち江さんに明先生の講演会があるから、「是非、行きましょう」と誘われての参加でした。実に15年振りの再会でした。先生がご用意された資料を見ながらというよりも、先生のお話を目で聴く感じでした。高校時代の頃と変わらない穏やかで、スーと頭に入っていく口調が、懐かしく蘇りました。「僕は普段、マイクを使わないんだが・・」と仰られて、お元気で良かったと思いました。講演会では、前成説から始まり、調整卵、卵が生まれる瞬間の話、カナダの一卵性5人姉妹の話から、細胞の万能性に関する話と展開していき、引き込まれてしまいました。先生の授業の流れが明快で、わかりやすかったのが、生物学を好きになった理由でした。
 ある日、生物学の授業の中で、先生は「この教室の中には、白魚の指のような人はいないかな」と仰ったので、思わず、私は自分の手を見てしまったことを思い出し、45年振りに、そのお話をしましたら、先生の飛びきりの笑顔がかえってきて・・ここに再会できたことに感謝感激でした。

 さて、講演会に戻しますが、その中でも、光るマウスの話のところでは、とても、衝撃を受けました。遡れば、下村脩博士が、2008年に、オワンクラゲの光る遺伝子の発見でノーベル化学賞を受賞しておりますが、この光る遺伝子がその後、生命科学の発展に不可欠なものとなり、多くの研究者に引き継がれ、数々のタンパク質の生体内挙動、ひいては分子レベルの生命活動を停止せずに観察が可能となったというお話には驚きでした。『一見、何の価値もないと思われるような物質』がとんでもないことを引き起こしたのです。ここでも、何故だろうと疑問を持つこと、気が付くことの重要性を改めて教えてくださいました。さらに、明先生の広く深い視野からの洞察、お考えをお聴きできて、幸せに思いました。
(※オワンクラゲの光る遺伝子は1962年、下村脩博士によって単離・精製されました。)また、先生はウズラの研究のため、たくさんのウズラを飼育されているとの御話で、帰りに頂いたウズラの卵で、「胚」に見たてた玉子焼きを作り、数日後、先生のお宅へ伺いました。(掲載写真①、②参照)
 後日、電話の際、先生のお誕生日に関して3.5.8.13という数字が数列であるけれども、何か考えてきなさい と宿題をもらったのでした。以下は、先生へのお手紙という形式で、お伝えしたいと思います。


中村明先生、こんにちは。
  先日、東京の神保町で還暦を迎えるという老舗の喫茶店[さぼうる]に友人と行った時でした。店の前のほぼ満開の君子蘭に吸い寄せられて、思わず、花の数を数えてみました。予想した通り、13個で半球体をなしておりました。 1,2,3,5,8,13,21・・と いう基本数は各所に見られ、生命活動に密接な関連を持つ という先生のご発言通りでした。

 あの数列はフィボナッチ数列ですね。先生は84歳とはとても見えませんし、若々しく、私にはまだまだ、まだ、現役の先生です。
 世の中には不思議な事が沢山あります。何でも解っていると思っている人は、知らないこと、解っていない事に気付いていないだけです。科学とは、このような事に気付くことに始まります…と、今でも、教えてくださるのです。
 先生が『ウズラ』 についてお話されていた時のお顔があまりにイキイキされていらしたので、私もウズラについてプチ研究をしてみました。その成果をレポートにして、 またお目にかかれることを願っています。
 私たち、24回生は昨年、還暦同窓会を舘山寺で行ないました。幾つになっても恩師と生徒です。
お元気で (2015・5・13記)


【堀川佐江子(旧姓・鈴木)さんからのメッセージ】
 懐かしく思い出した「生物」の授業

 先日、二人の先輩に誘われて、「生物」を習った中村明先生のお宅を訪れるという幸運に恵まれました。(※掲載写真⑤参照)実に40年ぶりの再会でした。高校1年で受けた「生物」の授業は他の理科教科に比べて断トツ面白く、それは明先生の語りのうまさに依るところ大でした。今でも良く覚えているのは、肝心の生物学から離れた余談ばかりですが、今回の訪問でそのうちのいくつかを思い出として先生にお話ししました。
その1、「忘れた」と「知らない」は違う
 明先生が学生時代、ある試験の成績が悪かった時、その先生に呼ばれ「これは知らなかったからではなく、忘れたから書けなかったのだな?」と言われ、良い点を付けてくれた、というお話です。
 今回先生は、「忘れたら努力して思い出せばいいんだよ。知らないことは思い出せないからね」とおっしゃいました。
その2、木原均先生のこと
 国立遺伝学研究所の木原均所長がドイツ留学時、一生面倒を見るからと連れ帰ったお婆さんがいて、その人に研究員は英語の論文をチェックしてもらっていたそうです。しわくちゃのまさに梅干しばばあで、しかも意地悪。「君はどこの大学を出たのかね?」「ほう、その大学は英語を教えなかったのかね?」若い研究員は皆、困ったというお話です。
 私は当時、ドイツから連れてきた女性と言うことでエリスを想像しましたが、梅干し・・・と明先生がニヤリとされたので面白かったです。今回確かめると、その老婦人はリリエンフェルト(百合の畑という意味)という名前でした。身寄りがないというので木原先生が日本に連れてきて、本当に遺伝研の敷地内に一生住まわせていたそうです。
その3、木村資生(もとお)先生のこと
 明先生はわざわざ「木村資生、集団遺伝学部長」と板書されて「この人の名前は覚えておくように。偉大な研究をされた。」とおっしゃいました。でも内容は忘れてしまいました。
木村先生は「中立説」を唱えた有名な学者です。中立説とは、分子レベルではダーウィンの言う適者生存だけでなく、たまたま幸運に恵まれた者も残っていくという説です。今回伺ったお話では、木村先生は本を抱えて部屋から部屋への移動中に、つまずいて転びそのまま亡くなられたそうです。わたしは衝撃を受けました。
この度の訪問では、15歳の時の記憶が生々しく蘇りました。先生も「その話はした覚えがある」とおっしゃって、80歳をすぎてなお、明晰な頭脳をお持ちで語り口も昔と全く同じ、よどみなく言葉が出て来ます。一方、能天気なわたしでも、坂道を転げ落ちる勢いの自分の記憶力に愕然とする毎日です。「人類は下り坂」ならぬ「人生は下り坂」の自分ですが「忘れたら思い出せば良い」との言葉を支えにこれからも努力を続けたいと思います。先生のお話は決して余談ではなく、ものの考え方、生物学の本質を教えてくださっていたのです。
 明先生とまたお会いできる日を楽しみにしています。                      ( 2015.5.10記 )

【国広なごみ(旧姓・呉林)さん】
 中村先生の授業で進路をきめました!

 先日、同窓会で堀川佐江子さんにお会いした時、中村明先生の話が出ました。私の進路決めには中村先生の授業の影響が大きかったと言ったら、ここに投稿させていただくことになりました。私は高校3年生になって進学を決める時、それまでの授業を思い返して、一番面白かったのは1年生の時の中村明先生の生物学だったと思い、あまり迷わず生物学科を第一希望にしました。
 先生の授業はもちろん雑談としてもかなり面白かったのですが、進路決めはちょっと違う理由だったように思います。中村先生の授業では、謎や疑問を先生が自ら見つけ、それに答えるための根拠を考えて吟味し、あるいは実験して実証した経験を面白く話されていたように思います。私は先生に直接に確かめた訳ではありませんが、生物学科にいけば「謎を見つけて解いていく」、というような事が出来るのだと思いました。地道に覚える勉強があまり好きでない自分が無理なく続けられる学科は生物学しかないと考えました。謎解きは推理小説やパズルやゲームのようにわくわくします。今では、生物学以外の理系科目でも、社会科学、歴史など、どの分野でも「謎解き」は出来るものだと解りましたが、やはり謎を見つけやすいのは生命系でしょうか。
 私は生物学科を卒業し、大学医学部の基礎講座に入り研究の世界に足を突っ込み、まだ実験医学系の仕事をしています。この仕事のためなら地道な事も以前ほど苦痛ではなくなりました。授業の方も先生のように面白い話が出来たらと思うのですが、これはなかなか真似しようと思ってもできません。
 このような理由で、先生の授業はとても印象的で、私にいろいろな影響を与えてくれました。中村明先生どうもありがとうございました。これからもお元気でご活躍ください。                            
   ( 2015.5.22記 )



  • 先生から頂いたウズラの卵

  • 胚にみたてたウズラの玉子焼き

  • 本の帯に、中村先生執筆の「丘浅次郎先生に因んで」からの文を抜粋して掲載。

  • 中村先生の講演会再生医療・スタップ騒動で学んだもの」にて(H27 3月7日)左から、後藤さん・中村先生・幡鎌さん

  • 中村先生の御宅にて   左から、堀川さん・中村先生・後藤さん

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